爆問!太田の力

昨日(4/1)、NHK総合「爆笑問題のニッポンの教養」を見た。

あの爆笑問題が、赤坂の編集工学研究所に立ち入って、我らが松岡正剛校長に鋭く切り込む(切り込めるか?)。

私は2度ほど編集工学研究所を訪れたことがある。一度目は、ある雑誌の編集委員として、二度目は、図書街のシステムのヒアリングだ。お洒落で、本当に知の趣を感じる空間だ。太田がしきりに「男の城」と強調していたのも頷ける。

今回、きっと校長が爆笑問題にかなり歩み寄る形で受け応えをするんだろう、とあまり期待しないで見ていたのだが、なかなかどうして、太田は切れ味鋭いな。独自の論理展開でテンポ良く切り返すし、校長を唸らせる場面も幾度かあった。只者じゃないなと感じた。校長も「こやつ、なかなかやるのぅ」と感心したのではないだろうか。

そもそも、太田光は漫才のネタを考えている。時事ネタを作っている。コラムや小説を書いている。いろんな番組の司会もやっている。たくさんの才能と出会っている。つまり、日常茶飯事的に「編集」をやっている。だからこそ、いろいろな切り口を持っているし、日々それをブラッシュアップできているのだ。

漫才について、田中と太田は「同じネタは二度とやらない」「完璧になるまで練習を繰り返す」と異口同音に話す。なぜなら「普遍的でありたい」からと太田は語る。しかし、「自分はとても飽きっぽいんです」と自己分析する。だが、この矛盾と付き合って行くことが面白いと語る。笑ってもらえる事が快感となるから、お笑いを続ける。お笑いじゃなくても、俳優でも時代劇でも何でもいい。型に捉われずに笑わせたい。そうか、だから爆問は面白いんだな。自分なりの「型」を持っていて、さらにそれを「破」るべく、創作を繰り返しているのだから。

ネタや小説を作るときは、納得の行くまで、何度でも書き直す。しかし、書けば書くほど、文字を埋めれば埋めるほど、自分が本当に言いたいことや表現したいことから遠ざかって行くような気がする。表現した時点で止まる。表現したい敵(対象)は常に動いているのだ。瞬間瞬間が真実、との分析は大変興味深い。

校長はゴッホの例を出した。ゴッホは、その瞬間・その角度のひまわりを描いた。見るたびに表情の異なるひまわりを描いて行ったら、実際とはおよそ違う形(ひまわりとも太陽とも見える)のひまわりの絵が完成した、とのこと。

インプットとアウトプットはイコールではない。再生するときには必ずズレが生じる。このズレや間にあるものを追求したいのだと両者の意見が合致した。

言語のズレについて、掘り下げていくと面白い。「黒い雪」や「けたたましいハンバーグ」。確かに、実際はないが何かしら想像を掻き立てられる。日本文化は元々デュアルなもの。例えば、中国から漢字を輸入しながらも、万葉仮名を振り、ひらがなやカタカナといったオリジナルを作り出していった。矛盾する相反する2つのものを持ちながら
2つ2つを重視して来た。だから、もっとラディカルになっていい、と校長。しかし、日本はそれを捨ててきてしまった、と太田。「生と死」、「善と悪」の2つなら「死」や「悪」を捨てればよいが、「生と生」や「善と善」という選択肢の中でも、どちらかを捨ててしまってきたのだと。

太田は哲学者か?そこに、校長が「欧米か!」と突っ込む(笑)
校長は、縦割りが嫌いな人。とにかく、横につなげたい人。だからイシスでは、情報をつなげる、関連付けるといった稽古をしているのだ。

それにしても、太田のトルーマンカポーティ作の「冷血」の話は、少しおどろおどろしかった。犯人のテリースミスに惹かれて行った挙句、彼のことが頭から離れなくなり、夢の中に出てきたスミスの肖像画を思わず自宅の壁に油性ペンで書いてしまって、怖くて後悔したとのこと。

今回の番組では、ともかく太田の才能や瞬間的な反応力が光った。私は、すっかり、爆問(太田)のファンになってしまった。

翌日本屋で目にした「爆笑問題集」を速攻買ってしまったのは言うまでもない。