王監督、50年間お疲れ様!

私が小学生の頃、プロ野球界はON全盛時代だった。

巨人がV9を達成したのが、小学校3年生のときだった。

当時の代表的な選手は、

高田(レフト)、柴田(センター)、長島(サード)、王(ファースト)、土井(セカンド)、黒江(ショート)、末次(ライト)、森(キャッチャー)、堀内(ピッチャー)、川上(監督)

といった布陣だったかな。

何度か父に後楽園スタジアムに連れて行ってもらったことがある。

グローブを持って行って、試合前のライトスタンド最前列を陣取って、王選手のスタンドインの打球を捕球するのが楽しみの1つだった(もちろんなかなか取れないのだが)。

また、プロ野球スナックに付いてくるおまけのカードは、僕らの宝物だった。

時には、カードだけ剥がして、スナックを捨てたりもした(MOTTAINAI!)

その中でも、ONのカードは、格別に価値が高かった。

ダブったカードを友人たちと交換したりしても、ONのカードは回って来なかったものだ。

プロ野球カードだけでなく、ONのサイン入りボール(硬球)には、苦い思い出がある。

それは、小学校3年生の時(私のこれまでの人生で最も暗黒の時代)、万引きの共犯者にさせられた事件だった。

ある車のディーラーで、ローラスルーゴーゴー(古いなぁ)で遊んでいたのだが、悪友の1人がふと倉庫のダンボールに王選手や長島選手のサインボールがたくさん入っているのを発見したのだ。もちろん、車を購入してくれたお客さん用のノベルティグッズだったことは言うまでもない。

そのサインボールに目を付けた悪友は、私にポストプレーを要求したのだ。ディーラーの窓口側から倉庫がドア越しに見えるようにクリアな窓付きのドアで仕切られていたのだが、そこに立って目隠し役をしろとのことだった。

「そこに立ってて!」と言われて、何も知らずに言われるままに立っていると、悪友2名はゴソゴソとダンボールを漁り始めた。セーターの中に、5−6個のボールやペンなどを隠していたのだ。

数分後「コラーッ!」という大人の怒声とともに、「逃げろっ!!」という悪友の声が聞こえたので、私も慌てて一緒にディーラーを飛び出し、一目散に逃げた。

ところが、ドジなことに、サインペンを2−3束落としてしまったのだ。

それを、隣のクラスの女子に拾われてしまい...

この先は、先生に呼び出されて、生徒の面前でビンタ・パンチの雨霰だった。

当然、悪友2名は私の名も出した。情状酌量の余地はない。共犯といっても容赦はなかった。

後日、ディーラーに盗用品を持参して、泣きながら謝りに言ったのを覚えている。

とまあ、苦い思い出のサインボールだった。それ程までに貴重な品だった。

程なく、王選手はハンクアーロン選手の持つ755本塁打を抜く756号を放ち、「世界の王」となった。

そこから、まだまだホームランを量産し、引退までに通産868号もの本塁打記録を成し遂げた。

選手時代の王さんはストイックな印象が強い。

荒川博打撃コーチの指導の下で一本足打法を習得したのは有名だが、以下のようなエピソードもあった。

WiKiPediaより抜粋)
特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようである。

一方で、あまりにもマイペースで明るくて華やかな長島茂雄がいたためか、王監督がまじめで、自分に厳しくて、努力の人、という印象が残っているのかもしれない。

その印象は、巨人の助監督・監督時代やダイエーの監督当初まで根付いていく。

連敗続きで低迷して最下位まで落ちたとき、熱狂的なファンから帰りのバスに卵をぶつけられたことは記憶に新しい。

しかし、王監督は「我々は勝つしかないんだ。ファンに納得してもらうには勝つことだ」と、選手を奮い立たせた。

そこから、なりふり構わない王監督に変身した。「世界の王」を捨て、「気さくなおやじ」になった。

選手のハートをつかんで、優勝を狙えるチームにまで仕立て上げた。

元々、人にはとても気を配る心細やかな方なのだ。

そんな、王監督もついに引退か。

長島さんも、大病を患って、まだリハビリ中だ。

ONは日本の宝。ゆっくり静養してほしい。

「日本の野球をメジャーレベルにしたい」は王さんの口癖でもあった。

そして、これからも日本球界に影響を与え続けてほしい、と思うのは国民共通の願いであろう。