福澤諭吉展をブラウジングして

今日は、家族と上野動物園に行った。

なぜなら、私が『福澤諭吉展』の前売りチケットを持っていて、開催期限(3/8)までに上野博物館行きたかったからなのだ。

平日一人で行ければよかったのだが、仕事が忙しくてなかなか半休など取れない。

それに、家族でわざわざ上野まで行くのもメンドイ・シンドイ。

「上野は遠いなぁ。」と思いながら、今日まで来てしまった。

しかし、締め切り間際になると俄然燃えるのが私の性分。

ようやく重い腰を上げたのでした。

しかし、「尻に火が点かないとやらない」という悪しき習慣からなかなか脱却できない自分がもどかしい。

ともかく、動物園の合間に1時間だけ時間をもらって、『未来を開く 福澤諭吉展』に行ってきました。

展覧物は以下の7部構成に分かれて展示されていた。

第1部 あゆみだす身体
     「身体」をすべての基本と考えた福澤。その身体観にそって日常生活を再現。
第2部 かたりあう人間(じんかん)
     男女、家族、そして市民の交わり。新しい社会をつくる「人間交際(society)」の構想をあとづけます。
第3部 ふかめゆく智徳
     「独立自尊」の個人を育てるための教育活動を、福澤自身の知の形成とともに紹介。
第4部 きりひらく実業
     一国の独立の基礎として奨励した「実業」世界。門下生の地方での奮闘にも光をあてます。
第5部 わかちあう公
     演説の創始、『時事新報』の発行など、福澤の新しいメディアをとおした活動を解明。
第6部 ひろげゆく世界
     海外体験やアジアへの視点など、国際社会との取り組みを検証します。
第7部 たしかめる共感 福澤門下生による美術コレクション
     福澤に学んだ経済人が収集した美術コレクションのほか、慶應義塾ゆかりの名品を展示。

1点1点全部は観れなかったが、ざっとブラウジングするだけでも、ハッとする言葉や写真が目に飛び込んでくる。

福澤諭吉は、まず独立した個人の基盤として「身体」を重視し、独立した個人が社会を形成するために、個と個の交わり(「人間交際(Society)」)大事にした。まさに「独立して孤立せず」という思想の裏付けである。

また、福澤が女子の存在を特別大切にしていたのは驚きだった。

福澤は「男尊女卑」という封建的な男女観の打破を生涯を通じて唱えた。

四男五女を授かった福澤に「たとえ九人の子供が女子だって全然構わない。」と言わしめたほど、娘たちを寵愛し大切に育て上げた。

そして、独立自尊の個人の育成を望み創設した慶應義塾の150年の歴史。

福澤は知性とともに気品の涵養をめざす学塾教育を実践し、格式を嫌い、型破りな自由さを貫いた。

さらには、慶應義塾から多数輩出されたビジネスパーソンたち(「福澤山脈」と呼ばれる人々)にフォーカスされる。

福澤は、官尊民卑の封建的思想を打ち破り、一国の独立の基礎に、実業への挑戦をおきました。いまだ尚武立国を旨とする時代に、あえて異例な「尚商立国」を掲げ、商=ビジネスの役割を説いて多数の経済人を輩出し、「福澤山脈」を築きました。とりわけ本展では、福澤の教えを受けた者たちが都市部での起業のみならず、日本の隅々まで挑戦の裾野を広げた事実に注目し、従来、あまり語られなかった「もう一つの福澤山脈」にも光をあてます。

中でも北海道の十勝を開拓した「依田勉三」の写真は目に焼きついた。

依田勉三(明治7年入塾)は、北海道開拓の結社「晩成社」を結成して十勝に入植。凄まじい辛苦の中で生涯を終えるが、その活動は十勝開拓の礎となり「拓聖」と呼ばれた。

後世の残る歴史的な成果は上げられず、断念・無念の連続だったようだが、未開の地で、ホンの僅かな人数で目の前の問題や現地の人々と日々戦っている姿が頭に浮かんだ。



次に、福澤は国と個人の関係を考え、「公」と「民」をつなぐ新しいメディア(「演説会」)を創始し、中立的な日刊新聞『時事新報』を創刊した。

福澤は議会制の発展を希求しつつ、他方で明治政府の権威主義には徹底して容赦ない批判を加えた。

福澤は、自ら考え、行動し、表現し、社会と共有することを、個と社会をつなぐものと捉えた。

コミュニケーションの基本がここにある。

福澤は3度の海外体験を通して、日本と世界とのギャップを痛感し、グローバリズムというものを真剣に考えた。

どうしたら、日本が世界と肩を並べることができるか、世界をアッと驚かせられるか、鮮やかに世界に出ていけるか。

そこには、中高・大学と一貫した教育が必要であり、そこから世界に通用する人材を多数輩出することが重要であると説き、実践した。

福澤は、いろいろ山積する課題を数えつつ亡くなったとされるが、彼の思いは、慶應義塾の150年に受け継がれているように思った。

慶應に友人や知り合いの多い私として、改めて「慶應義塾は人である」という思いを再確認させられた気がする。

今更ながら、福澤諭吉の業績の大きさに驚いている。

確かに上野は遠かったが、行ってよかった。