尾崎豊〜もう一つの原点回帰
たまたま、YouTubeの録画ツール(「チューブ&ニコ録画 for iPod」)でいろいろとビジネス&音楽シーンを検索していたら、たまたま尾崎豊の音楽映像に遭遇して、そこから懐かしさも手伝って、深夜までハマってしまった。
尾崎もまた大学時代に傾倒したミュージシャンだ。
私が最初に出会った歌は、「I LOVE YOU」とか「卒業」とか「シェリー」といった大ヒット曲ではなかった。
「DRIVING ALL NIGHT」とか「Forget Me Not(わすれな草)」とか「誰かのクラクション」だった。
横横を飛ばして向かう大学への道すがら、よくカーステレオで聴いて口ずさんだものだ。
20数年前、私も相当孤独だった。
しかし、尾崎は単なるミュージシャンではない。
自分の内なる魂のメッセージをメロディラインに乗せて、やさしく強弱のある旋律で、聴き手の魂を揺さぶる表現者だ。
歌詞は無駄がなく研ぎ澄まされ、声を張り上げ、常に全力で歌う尾崎は、途中で声が出なくなったり、倒れたりしてしまわないかとこちらが心配になるぐらいに暴れたりのた打ち回ったりしていた。
実際、コンサートでは、舞台のセットによじ登って、4,5メートルの高さから飛び降りて、足を骨折したりは日常茶飯事だった。
もちろん演出もあったかと思うが、それ以上に最大のパフォーマンスを出そうと努力していた。
それにしても、尾崎の『街路樹』はいいね。
足音に 降り注ぐ心もよう
つかまえて 街路樹たちの歌を見えるだろ 降り注ぐ雨たちは
ずぶ濡れで 夢抱きしめている君さ最後まで愛ささやいている
壁の上 二人影ならべて
尾崎は、苦悩していた。
あがき、苦しみ、一人で悩んでいた。
いや、誰かに相談はしていたとは思うが、誰も彼の「言い知れぬ不安」を払拭することはできなかった。
幻冬舎の見城徹氏などは相当振りまわれさて、それでも何とか尾崎を救おうと最後の最後まで付き合っていたようだ(『異端者の快楽』より)。
結局、最後は三行半を突き付けて、決別してしまったようだが。
歌詞、曲調、リズムなどすべての自己表現において、尾崎はどこまでも完璧主義だった。
完璧な表現を追求した。
だから苦しかった。
しっくりとした歌詞が出てこない。メロディが気に入らない。表現が面白くない。すべてが腑に落ちない。
完璧主義が一旦崩壊すると、どこまでも落ちていってしまうものだ。
完璧主義と堕落主義は表裏一体。
崩壊した尾崎は、怒りをどこにぶつけてよいかわからず、周りにあるものすべてに毒を吐き、傷つけていった。
そして、自分が一番傷ついた。
自分を嫌悪し、自分を責め続けた。
つまりは、極端すぎるのだ。
まさに、自分自身を見ているようだった。
私も含め、特に若い人々が、そんな尾崎に惹かれてしまうのはなぜなのだろう???
太宰と同じく、母性本能なのだろうか?
それもあるかもしれないが、きっと誰もが持っている弱さや脆さ、そして誰もが守りたくても守れない人間本来の純粋無垢な心に惹かれてしまうのだろう。
思うに、尾崎は永遠に大人になりたくなかったのだろう。
嫌でも大人にならざるを得ない心と絶対に大人になりたくない心。
二つの心の葛藤ともいえる。
誰しも、どこかで折り合いを付けて生きているのだが、尾崎や太宰はそれができなかった。
そして、自分自身を壊すことで、その戦いに終止符を打ったのだ。
もう一度、尾崎を聴いて、20数年前の自分に戻ってみよう。
時々、尾崎や太宰に触れて、自分を見つめ直すことは、私の「原点回帰」でもある。