疎外感に打ち勝つには竹に学べ!

ここ半年ほど、仕事で疎外感を味わっている。

というか今まで自分が積み上げてきたものを1つ1つ剥がされて行く感覚を味わっているといった方が正確かもしれない。

一線を退くための準備を自分でしているのではなく、強制的に準備させられているのだ。

そう、治癒していない傷口の瘡蓋を剥がされて行く感覚(イタタタ・・・)。

部下の育成や権限委譲といった点は大賛成なのだが、「お前はあの部課長から嫌われている」とか「お前はストレート過ぎて世渡り下手だからダメだ」,「お前の(図書館員としての)命もあと1−2年だから身の振り方を考えておけ」といった脅かし的な発言を受けるのは甚だ心外だ。

さらに、それを周囲の仲間に擦り込んでいるからたちが悪い。

『俺が一体何をしたというんだ!』,『スタッフのため、利用者のため、寝る間も惜しんで働いてきたではないか!』と地の底から湧き上がるように魂の叫び声が聴こえてくる。

実際に、私が今までやっていた仕事が日に日に別の人にシフトしている。

中には、内臓を抉られるほど露骨に「自分外し」が行われている場面に出くわすこともある。

誰かがうっかり私の名前を出そうものなら「あいつの名前は出すな!」と言わんばかりの態度で、私を否定する。

確かに、過去を否定しないと前に進めないのはわかるが、最低限の労いと敬いは必要ではないのか???

などなど、いくら文句を言ってもきりがないし、ブログを読んでくれている方々の気分を悪くしても仕方ないので、この辺で愚痴は止めておきたい。

そう、愚痴や怒り(負)から、アイデアやブレークスルー(正)を生み出すのが私のライフワークなのだから。

三毒追放』とは勝間和代さんがよく口にされる言葉だが、なるほどよく言ったものだ。

三毒とは、「怒らない」「妬まない」「愚痴らない」。

私は常に3つとも持っているが、これらのせいで損をしていることも多い。

せっかく近くに来てくれた幸運にも気づかずに、自ら辛苦の中に飛び込んでしまう傾向がある。

ストイックなのか、マゾヒズムか、自虐志向か?

はたまた、悲劇のヒーロー気取りか?

いつの世も破滅的な男は格好いいが、それだけでは飯は食えない。

現実に起きていることに対して、腐っても、抗っても、攻撃しても、いい結果は生まれない。

ピンチや逆境にあるときこそ、発想の転換が必要となる。

そこで、自分は今「節目にあるのだ」と理解することにした。

竹はしなやかで強い。
その鍵は節目があるからだと思う。
節目があるからまっすぐ伸びる。
節目があるから強度が保たれ外圧にしなやかに対応できる。
(中略)
節目づくりとは、節目の前の期間を振り返り・反省し、節目の先の目標設定、計画づくりをしっかり行うことではないか。
竹は節目があるからまっすぐ伸びる〜「皆幸あれ!生涯青春日記」より)

私にとって、今この時は「自分が次なる成長を遂げるために立ち止まって見直す時」なのかもしれない。

とすれば、他に目や心を奪われることなく、先をしっかりと見据えて、自分の目の前にある課題や問題にフォーカスして、1つ1つ解決していくしかないな。

陳腐な表現だが、「慌てず、騒がず、自分を信じて、地に足を付け」、そして「竹のように強くしなやかに」行動していきたい。