フラット化しない世界

かつて、トーマス・フリードマンは『フラット化する世界(上・下)』という名著を書き記した。

新しい通信テクノロジーの出現によって、地球上のあらゆる場所にいる人間との共同作業が可能になり、インドや中国へのアウトソーシングが始まった。ブログやGoogleはインターネットに接続する個人にグローバルな競争力を与え、(中略)いまや、個人の働き方、企業のビジネスモデル、さらには国家のシステムが猛烈な勢いで変わろうとしているのだ。この劇的な大変化こそ、「世界のフラット化」である。

(『フラット化する世界』カバーの折り返しより引用)

事実、経済がボーダレス化し、インターネット空間を利用したサービスの発展により人々の情報収集活動やコミュニケーション活動もボーダレス化した。

どこにいても仕事ができ、誰とでもつながることができる。

自分の思いやアイデアや体験をブログやYouTubeににアップすれば、世界の人たちと感動を共有することができる。

Twitterを使えば、ちょっとした”つぶやき”さえも共有して盛り上がることができるのだ。

WikiPediaに参加して、自分の得意分野の辞書を充実させることでボランティア的な社会貢献も可能である。

そこにはルールやマナーはあるが、基本的に人としての上下関係はない。

興味や関心があれば人が集まってくる。

スーパフラットなコミュニティが形成され、形を変えて広がっていく。

もちろん炎上したり自然淘汰されるコミュニティもあるし、2chのように匿名での喜怒哀楽のはけ口的なコミュニティもある。

誹謗中傷やパクリなど問題も多いが、ネットは多重人格が許される世界でもあるので、攻撃されてもまた別人格で登場し活躍することもできる。

確実に、格差のないバリアフリーな世界に近づきつつある。

また、「格差があることが競争力を生む」と勘違いしている人も多いと思うが、「格差をなくすことこそが競争力を生む」と勝間和代さんは言う。

これは、世界に通用する独自性や専門性といった高品質な格差(上限格差)をなくすことではなく、派遣切りやまともに教育を受ける機会がないといった下限格差をなくすべく「セイフティネット」をしっかりと引くことが急務であるという意味だと解する。

一方、職場に目を転じてみると、最近富みに「規律(いや戒律か)」や「ルール」,「マニュアル」に縛られ、人間関係がギスギスしている。

マネジメントの基礎となる「母なる愛情」など皆無で、いきなり「父なる規律」から入ってしまう。

上司も部下も同僚も他部署も、どこを見渡しても自分のことで精一杯で、他人への「目配り」「気配り」「心配り」がまったくできていない。

自分の頭で考えることも少なく、マニュアルや前例にないことはやろうとしない。

個人のジャスト・アイデア!やクリエイティビティ、オリジナリティは無視される。

それよりも、言われたことを、迅速かつ確実に、そして「淡々と」こなす人材が必要とされる。

上司はうるさい部下を嫌い、部下はうるさい上司を嫌う。

時間もないのだから、一々文句や突っ込みを入れず、淡々とやってほしいのだ。

そして、うるさい人間は速攻飛ばされてしまう。

そう、ネットの世界とは逆に、リアルな人間関係や人事は、非合理・不条理・不平等なのだ。

最終的には「上司に気に入られるか否か」に尽きる。

フラット化どころか、ガチガチの「ピラミッド構造」が形成されている。

非常にちっぽけなピラミッドだ。

そこには政治的なドロドロが付き物だ。

「家庭政治」とでも言おうか。

昔「職員は教員の奴隷だ」といった人がいたが、奴隷の中にもピラミッド構造は確実に存在する。

もちろん、教員は教員で「権威主義の巣窟(もしくは「白い巨塔」とも言う)」の中にいるので、ガチガチのピラミッドの中で四苦八苦している。

つまり、大学などアカデミックな場は「フラット化し得ない世界」なのだ。

Googleや熱いベンチャー企業とは対極にある世界。

どんな大企業でもCEOと気軽に話をしたり、メール交換したり、ブログに突っ込みを入れたりできるような世界に憧れてしまう。

いや、憧れではなく、必ず実現したい。

きっとそのような企業は規模の大小にかかわらず、風通しがよく、社員を大切にする会社に違いない。

さて、みなさんはどっちの世界に住んでみたいですか?