マイケルの死〜ブラック・オア・ホワイト

世界中の若者を最も熱狂させた男「マイケル・ジャクソン」が亡くなった。

白い肌に憧れて、憧れて。

そして、最後まで謎に包まれたまま亡くなった。

史上最大のヒット作「スリラー」は私にとって恐怖だった。

TVで初めてミュージックビデオを見た時(それは確か18歳の冬)、下手なホラー映画よりもよっぽど怖かった。

アッと驚く展開から始まり、最後までドキドキさせるストーリー展開で、ソンビ映画さながらに良くできていた。

マイケルは当然だが、ソンビたちが妙にダンスが上手かったのが印象的だった(もちろん全員プロのダンサーであることは間違いないが)。

何より、マイケルの目がギラギラしていた。「目力(めじから)」があった。

マイケルは、才能に溢れる少年だった。

ジョセフ・ジャクソン氏との確執はあったにせよ、ジャクソン・ファイブでの活躍は天才というより他に言葉が見当たらない。

リズム感、ダンス、ソウルフルな歌声、そして何よりもスター性が光っていた。

ソロになって、才能はあるものの、それほどのヒットはなかったが、クインシー・ジョーンズのプロデュースによって、「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」「BAD」など爆発的なヒットを続けた。

世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、どんなに地位や名誉やお金を得ても、絶対に乗り越えられない「壁」を感じていた(に違いない)。

それは「人種の壁」であり、「ジャンルの壁」であった。

例えば、バラク・オバマ以前は「アメリカの大統領は白人のみ」しかなれなかった。

例えば、MTVには「黒人の映像は放映すべきではない」という暗黙のルールがあった。

これら従前破ることができなかった壁を破って、黒人が堂々と白人と渡り合える世界を夢見た。

だから、”平和のカリスマ”は自分が代表して白人になることを選んだのだろうか。

人々の心に愛と平和をもたらすには、自らが平和の象徴である「白いハト」にならなければとの思いがあったのだろうか。

自分は「黒」にも「白」にもなれると。

つまり、自分が白になることで、白側の快楽や白側の目論見や白側の苦悩を知ろうとしていたのだろうか。

反対(白)側から自分たち(黒側)を見てみようという試みか。

いずれにせよ、相手の懐に飛び込まなければ、相手の本心はわからない。

己を知り、相手を知って、ブレークスルーポイントを見つけ出したかったのかも知れない。

「ヒア(こっち側:現実)」と「ゼア(あっち側:理想)」という表現がある。

ヒアからゼアに行ってみたくなるのは、誰しもあることだが、それが誰よりも強かったのだろう。

しかし、魂の音楽「ソウル・ミュージック」は黒人にしか歌えない。

そして、マイケルは「ブラック・オア・ホワイト」を歌った。

これは、白と黒の調和をテーマとして、スティービーワンダーとポールマッカートニーが歌った「エボニー&アイボリー」とは主張がかなり異なるように思える。

「エボニー&アイボリー」は、ピアノの鍵盤が奏でるハーモニーのように「白と黒が融合すること」が重要だと歌った。

一方、「ブラック・オア・ホワイト」は過激な表現で、白と黒を明確に対比させた。

そして、圧巻は最後にナチスハーケンクロイツKKK団などの人種差別団体の名前が書かれたガラスをたたき割るシーンだった。

人種差別反対する強い意志が鬼気迫っていた。

それでも、やっぱり白が美しいと判断したのだろうか。

肌の色は黒でも、心は潔白の白。

すっかり白人となったマイケルは、一体どのような心境だったのだろうか。

果たして満足したのか?ゼア(あっち側)から見た景色はどうだったのか?

もしかしたら、アイデンティティが崩壊しつつあったのではないか。

それとも「自分だけは違うんだ」というジャクソン家との決別だったのか。

マイケルの苦悩を知ったら、「黒人のままの方がよかったのに」なんて軽々しくは言えない。

たくさんの日本人が憧れ、ムーンウォークやジャケットプレイを真似した”苦悩する天才アーティスト”マイケルに心よりご冥福をお祈りします。